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カテゴリ:読 書( 28 )

「葉室 麟」のこと

「何を今頃」、と思う方もおられると思うが、私にとって「葉室麟」はまさに彗星のように現れた小説家だ。
来歴を調べてみると、2005年、「乾山晩愁」で第29回歴史文学賞を受賞して文壇にデビューした後、2007年には松本清張賞を受賞、以後毎年のように著名な文学賞の候補に挙がり、2014年には新人作家の登竜門である直木賞を射止めた。作家歴は今年でまだ10年余。それでもすでに40冊ほどが出版されていることからするとその人気の程が伺える。

元々私は歴史小説愛好者で、様々な作家の小説を読み続けているうちに、池波正太郎、山本周五郎、藤沢周平といった時代小説にまでウイングが広がって、最近では「なんでもあり」というような状態になっている。しかし、想いはやはり歴史小説にあって新進気鋭の作家の登場を待ちわびていた。そんな折、最近書店の新刊本コーナーで葉室麟の著書を多く見かけるようになり、なんとなく興味をそそられて数冊読んでみたらこれが面白く今ではすっかりハマってしまった。

彼の小説は、特別派手さはないものの、落ち着いた文体で時折文中に漢詩や和歌を織り込み、それが小説全体に格調の高さを生み出しているようにもみえる。彼は九州の出身ということもあって、小説の舞台は九州ゆかりの題材が多数を占めており、それも薩摩藩のような大藩ではなく、名も知られていないいような小藩が目立つ。したがって登場人物も歴史の表舞台で活躍した著名人より傍流であまり目立たない人物にスポットを当てている。

もちろん、小説であるからその主人公は作者の創作によるところが多いのは当然のことながら、彼の描く主人公は、人間としての矜持とか優しさを保ちつつ、人間が生きていく上での悲しみや苦しみを乗り越えて、凛とした生き方を追求する姿が読者の共感を呼ぶのかもしれない。そういった意味では藤沢修平や山本周五郎とはまた一味異なる小説であるともいえようか。

最近読んだ小説の中で「花の美しさは形にありますが、人の美しさは覚悟と心前ではないでしょうか」という言葉があった。自分の志操を曲げることなく、自分が大切だと思うことを貫き通すというのは口では言い得ても実践することは容易ではない。彼の小説に登場する主人公たちは決して大言壮語を吐くわけではないが、静かな中にも心底にそうした芯の強さがにじみ出ており、そこに人間としての生き方の美しさを求めているようにも見える。まだ読み始めてから10冊程度で葉室麟を語るには少々僭越なこととは思うが、今後の活躍を期待したい。
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by shun_photo | 2016-03-07 15:51 | 読 書

山崎豊子のこと

最近の読書はジャンルも何もあったものではなく、歴史小説への拘りはどこへやら全く無節操な読みっぷりでまさに乱読の様相。それも決して悪くはない。というわけで今回は山崎豊子をとりあげてみた。彼女の小説は人に薦められて読み始めたものだがなかなか面白い。初期の作品は大阪・船場を舞台にしたものが多いが、「白い巨塔」(新潮文庫・全5巻)を境に後期の作品は社会問題や戦争にまつわる物語が多くなっている。

私がこれまで読んだのは「白い巨塔」を始め、「仮装集団(新潮文庫・全1巻)」、「華麗なる一族(新潮文庫・全3巻)」、「不毛地帯(新潮文庫・全5巻)」、「二つの祖国(新潮文庫・全3巻)」、「大地の子(新潮文庫・全4巻)」、「沈まぬ太陽(新潮文庫・全5巻)」、「運命の人(文春文庫・全4巻)」、「約束の海(新潮社・全1巻)」の9作品。冊数にして31冊になる。

このうち、「不毛地帯」、「二つの祖国」、「大地の子」は、先の太平洋戦争に関連する作品で、戦争という不条理な出来事と、それに翻弄されて生きざるを得なかった主人公の生き様を作者の眼を通して厳しく見つめ、戦争の持つむごたらしい一面を怒りを込めて描いている。いずれも入念な現地調査や多くの証言・資料を基にして書かれており、それだけに読み応えは十分にある。

その他の作品はいわゆる社会問題を題材にした作品で、人間の持つ異常なまでの欲望や栄誉心が周囲の人たちを巻き込んで常識では想像もできないような境遇に陥れていく様をリアルに描いている。これらの作品はフィクションとは言いながらも実際にあった出来事をベースにして書かれている点でいろいろ考えさせられる要素を多く含んでいる。

特に「華麗なる一族」、「沈まぬ太陽」は、社会的地位から想像できる人間の表面とは裏腹に欲望にとらわれた人間のおぞましさ、醜悪さといったものが「これでもか」というほど描出されていて読んでいても途中で投げ出したくなるような気分になることが度々あった。もちろん小説であるから多少の誇張が入り混じっているであろうことは容易に理解できるが、「それにしてもここまで」というのが率直な感想である。

作者の戦争や社会悪に対する嫌悪と怒りは読んでいてもひしひしと伝わってきて、その気迫に圧倒される。一般的によく名の知られている作家は同時に数本の作品を手掛けることが珍しくないのだが彼女はそうしたことはせず、とにかく執筆中の作品に集中していたようである。それも徹底した取材に基づく制作姿勢からすれば当然のことなのかもしれない。

まだ前期の小説を読んでいないので山崎豊子はこんな作家、と断定的に書くわけにはいかないが、これまで読んだ限りでは作品のいずれも内容が濃く、作者の執筆意図が明瞭に感じられるものが多かった。
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by shun_photo | 2015-12-26 15:56 | 読 書

新田次郎再読

2カ月ほど前から新田次郎の小説ばかり再読している。彼の作品は、いわゆる「山岳小説」と分類されるものから歴史小説、伝記物など幅広いジャンルにわたっているが、中でも私が現在好んで読んでいる小説は山岳を舞台にして書かれたものがほとんどである。彼自身は「山岳小説家」と言われるのを好まず、「私の小説は山を書いているのではなく、人間を書いているのだ」と、随筆や小説の「あとがき」などに語っている。

しかし、彼には山を舞台にした人間ドラマが多いのは事実だし、彼が世に知られるようになったのも「強力伝」という小説で芥川賞を受賞したことも大きな要因ともなっている。この小説は、富士山で強力(歩荷・・・ぼっか)として働いていた実在の人物が、新聞社の求めに応じて重さ50貫(約188kg)もある花崗岩の風景指示盤を背負って白馬岳山頂に担ぎあげるという、とても人間業とは思えないような偉業を成し遂げるまでの物語である。この稿では一連の山を舞台とする小説を彼には申し訳ないが便宜上「山岳小説」と呼ばせていただくこととする。

一口に「山岳小説」と言っても中身はいろいろで、全くのフィクションから史実に則ってドキュメンタリータッチで書かれたものまでバラエティーに富んでいる。フィクション小説では遭難を題材にしたものや山での出来事を通した男女の心の葛藤、恋愛を扱ったストーリーが多い。実在の人物にまつわるドキュメンタリーの小説としては、「八甲田山死の彷徨」、「銀嶺の人」、「栄光の岸壁」、「芙蓉の人」、「劒岳 点の記」、「孤高の人」などがよく知られているところであろうか。

私自身は歴史小説好きなこともあってドキュメンタリー物に興味を魅かれる。作者は登山家とまではいかないまでもいろいろな山を登っていて、山や登山に関する知識も豊富であリ、山のディテール描写やロッククライミングの技術的な表現なども真実味を帯びている。また、長年気象庁に勤務していた経験から気象の専門的知識を活かして特に冬山における吹雪などの特殊な気象条件下での風景描写には卓越したものがある。

これらの作品の舞台となっているのは、2度のヨーロッパアルプス旅行の経験を活かした「アイガー」、「マッターホルン」、「グランドジョラス」というヨーロッパ三大北壁や日本では富士山、谷川岳、八ヶ岳、北アルプス・穂高連峰、南アルプス・北岳バットレスにまつわる小説が多い。いずれも極限下での決死の登山を描き、事実だけが持つ緊迫感があって読む者をハラハラドキドキさせる。新田次郎はヨーロッパ三大北壁などの登頂経験はないと思われるが、まさに登場人物に同行したかのごとく克明に登山の様子が描かれ、「新田次郎ならでは」という表現も随所に見受けられる。

彼の山岳小説には、「人はなぜ山に登るのか」というテーマを小説の底流に据えているようなところもある。また「登山する人に悪人は居ない」とか「女流登山家に美人はいない」などという俗説に反発して男性登山家であろうと女性登山家であろうと本質的には一般の人間と何ら変わる所はない、と物語の登場人物を借りて主張しているようにもみえる。そのためか小説に登場する女性は総じて美人で聡明な人が多い。もっとも男女の愛憎にからむ小説ではそうした設定の方が物語の展開がしやすいからなのかもしれない。これは小説に限らずテレビドラマでも同様のことが言えるであろう。

山岳小説以外のドキュメンタリータッチの小説としては、、「神通川」・・・神通川流域で発生したイタイイタイ病の原因をつきとめた萩野昇医師を描いた作品、「孤愁 サウダーデ・・・明治・大正期に活動した親日家のポルトガル外交官ヴェンセスラウ・デ・モラエスを扱った小説、「アラスカ物語・・・極北の地アラスカでエスキモーを救った日系1世フランク安田の半生記 etc。題材も実に多彩でどれも読みごたえがあり、ここに作者の真骨頂があるかにみえる。
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by shun_photo | 2015-09-07 23:35 | 読 書

宮城谷昌光 100冊

この2カ月ほど宮城谷昌光の小説を読み返していた。そのほとんどは中国の時代区分による「春秋・戦国時代(紀元前770年~紀元前221年)」に活躍した人物の半生を描いたものである。書名を挙げると、太公望(全3巻)、管仲(全2巻)、重耳(全3巻)、沙中の回廊(全2巻)、華栄の丘、晏子(全4巻)、子産(全2巻)、孟嘗君(全5巻)、青雲はるかに(全2巻)ということになる。

次に読もうと予定していた本は、楽毅(全4巻)、奇貨居くべし(全5巻)かな、と思っていた矢先、毎日新聞社から「劉邦(全3巻)」が発売され、他に随筆集が2冊発売されているのを知り、早速入手した。今回入手した本を加えると宮城谷昌光の蔵書が100冊に達した。

私は同じ作家の本を集中的に読む性癖があるので、これまで同一作家の本が100冊を超 えているのは、司馬遼太郎(143)、池波正太郎(135)、吉村昭(121)の3人。今回、新たに宮城谷昌光(101)が仲間入りして、この4人だ けで500冊にもなる。

当然のことながらそれぞれの作家の持ち味は異なる。宮城谷昌光の小説の面白さはまずスケールの大きさであろうか。 蔵書の内7割が古代中国に題材をとつた歴史小説であり、主人公の多くは君主、宰相であった人が占めていることから、波乱万丈の人生を送り数々の苦難を経て功成り名を遂げたストーリー構成と なっている。小説としてはどれも面白いのだが、登場人物がとにかく多彩で名前を覚えるのに一苦労する。

特に中国の春秋・戦国時代は、日本の戦国時代と同じように群雄割拠の時代であり、戦乱に明け暮れた時代でもあった。為政者がこうした時代を生き抜くためには軍事的・行政的手腕もさることながら、高い先見性を持ち人間的にも徳性を備えて人心を掌握しておくことも重要な要素であった。

小説は人間の活き様を描くものであると言われる。現在に伝えられる文献・資料では時々の事件や出来事は知り得ても、その時代に活きた人間の心の在りようを伺い知ることは困難である。小説家は史実の裏側にある人間の葛藤や想いを言葉として、あるいは会話として表現しなければならないのであるが、人間を、そしてその人間が生きた軌跡が作者の眼を通してどのように描かれるか、というのが歴史小説に興味が尽きない所以でもある。

宮城谷昌光は物語の登場人物の心象風景を見事に活写し、読者に「さもありなん」と思わせる説得力がある。また、文字に対する造詣が深く、言葉の意味を分かりやすく解き明かしてくれる点も読者の知識欲を満たす上で大いに役立っている。

こうした中国古代の小説を読んでいて思うことは、人間というものは、有史以来4千年とも5千年とも言われる時を経ながらも基本的な部分ではそれほど変容を遂げているわけではないのではないか、ということである。私なりの解釈では、人間に「感情」や「欲望」というものがある限りこれからも根本的な変化はないのではないかと考ている。

これらの小説から読み取れることは、新たな覇者の登場は前代の覇者の一族の滅亡をもたらしており、権力の禅譲は極めて稀な出来事である。もっとも現代では法の支配が行き届いているため前代の為政者が生命の危険にさらされることはないであろうが、一部の国ではいまだにこうしたことが起きているのように思う。

動植物の世界では、同一種が繁栄し過ぎると何らかの異変がきっかけで自滅することがあるのをかつて何かの本で読んだような気がする。例えば、セイタカアワダチソウは根から出る化学物質で周囲の植物の成長を抑えてしまうことが知られており、この種だけが増え過ぎると自家中毒を起こして自分が亡びてしまうことがあるという。

人間の欲望も果てしないものがあり、生活の向上を望む日常的な営みが、結果として無秩序に汚染物質や温室効果ガスを排出して大気汚染や地球温暖化を引き起こしている。これらの事象は人間の将来を暗示しているようでもある。戦争もまた然り。我が子や孫のためにもそうなる前に必要な手立てがとられることを念願しているが、日本の現状はどうか。人間の欲望が理性を超えてしまわないことをただ祈るばかりである。

また、宗教は人間を煩悩から解き放ち、幸せな人生を送るための手段であるはずなのに、独りよがりな論理で他者を受け容れないばかりか、異論を唱える者を抹殺してしまうような暴挙すら平然と行われ、まるでかつてナチスドイツが行ったジェノサイドを思わせる。こうした状況を見るにつけ、人間とはかくも浅はかな存在であったかと改めて思い知らされる昨今でもある。宗教でよく言われる慈悲とは、まず他者を受け容れることから始まるのではなかったか。

宮城谷昌光の小説の感想が思わぬ方向に展開してしまったが、古今東西を問わず個人レベルでも国家レベルでも人間の欲望は常に狂気に転訛する危険性をはらんでいると思わざるを得ない。小説にはこうしたことの反省の機会を与えてくれる一面もある。
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by shun_photo | 2015-07-21 07:00 | 読 書

蔵書再読

どういう風の吹き回しか、友人から「小説を読みたいので適当な本があったら貸してほしい」との要望があった。もちろん、同好の士が増えることは喜ばしいことなので二つ返事で了解した。さて、「それではどんな本を」という段になって、さしずめとっつきやすい藤沢周平がよかろうと思い物色を始めた。しかし、小説のタイトルに記憶はあっても肝心な内容はすっかり忘れているので、ざっと読んで内容を確認しようと思い、数冊読んでみた。

ところが読み進めると登場人物もストーリーも全く忘れており、初めてその本を読んだような錯覚に陥った。これは加齢による健忘症もあるだろうが、それより最初に読んだときに単に文字面だけを追っていて「読むというより見ていただけ」ではなかったのか、という疑念さえ湧いてきた。そんなことならもう一度じっくり読んでみようと考えて、貸す予定の本の再読を始めた。

そんなことで、私の蔵書リストのタイトルを見て面白そうな本をピックアップし、これまで藤沢周平の小説を数十冊、そのほか高橋克彦、新田次郎、司馬遼太郎、宮城谷昌光、浅田次郎の小説を読み続けている。再読してみてまず感じたのは当初読んだときにはあまり感じなかった面白さを再発見することが多かったということである。

長編小説の中には数冊に分冊されているものも多く、しかもそれぞれが数カ月から1年の間隔を置いて発売されるものも少なくない。宮城谷昌光の「三国志(全12巻)」などは1年に1冊の割合だし、現在読んでいる「呉越春秋 湖底の城(現時点で5巻)」なども同様である。これらは発売の都度購入しては読んでいたのでどうしても前巻までの記憶が薄れがちになり、結果として読後の印象が薄くなってしまう。

現在、ライフワークになっている野草の撮影だが、以前のように目にした花をすべて撮影することはなく、作品作りを意識して「今日はこの花を」とターゲットを絞って撮影するようになったので、自ずと撮影に出かける回数も減っており、自宅で過ごす時間が多くなった。その分、読書に充てる時間が大幅に増えた。おかげで、全3~4巻ある作品でも1週間もあれば読み終えてしまう。こうしたことが読書への集中力を高め、より深く作品に没入する結果をもたらしているのかもしれない。

今のところ、撮影以外では読書ばかりに時間を割いているが、折りを見て音楽も聴いてみたい。若い頃には毎月数枚のLPレコードを買っては聴いており、それが300~400枚近くあるので再読ならぬ再聴するのも楽しいだろうと思う。
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by shun_photo | 2015-06-18 13:43 | 読 書

藤沢周平作品完読

いつの間にか秋が過ぎ去り冬がやってきた。野にはわずかに残った菊の仲間の花が寂しげに佇んでいるだけで、写欲をそそるような花は見られなくなった。かといって野鳥もまだ冬鳥の到来はわずか。というわけで最近は滅多に出かけなくなってしまった。ブログネタがない。こんなときはエッセイでも書くか。そういえば読書感想を書いたのもはるか以前のことだった。そろそろ。

このブログで藤沢周平をとりあげたのは昨年10月25日のこと。そのときにはまだ25冊しか読んでいなかったが、以後も彼の作品ばかり読み続けていて、つい先日、既刊の文庫本での作品(文庫本では多分75冊)をすべて読み尽くした。これまでならば同じ作家の本を数冊読むと気分転換に別の作家の本に手を出すのが通例だったのだが、同じ作家の小説をこれだけ続けて読むのは珍しいことで、それだけ彼の作品の魅力に引き込まれたということになろうか。

藤沢周平作品に関しての書評などを読むと、異口同音に彼の作品には駄作がなく、端正な文章や風景描写の美しさに称賛の言葉が述べられている。エッセイなどでは、ある程度彼の人となりを知ることができるが、彼はとりわけ故郷の東北・鶴岡市への望郷の念が強く、自然に恵まれた故郷の印象が作品の随所に活かされているのが見て取れる。

小説ではしばしば「海坂藩」という架空の藩が登場するが、そこに出てくる自然や風景などからその所在地を推測すると鶴岡市周辺を意識したものであるとされる。因みに「海坂」とは、かつて彼が所属した俳句の同好会の名称を借用したとのことである。藤原作品愛好家の中には作品に記された地名から海坂藩の地図まで作っている人もあるという。

私はそこまでの努力はとてもできないが、とにかく全作品を一通り読んでみて感じたことは、作品内容が一般に言われる単なる人情物にとどまらず実に多彩であることが驚きであった。時代小説でも庶民の生活の哀歓を描いた市井物、お家騒動や藩の農政にまつわる出来事を題材にした武家物、剣豪物などがあり、そのほかに史伝、歴史小説などもあってバラエティーに富んでいるから、藤沢作品を続けて読んでいても飽きることがない。

市井物では藤沢周平が描く江戸の町は江戸の切り絵図に拠っており、物語に出てくる地名や橋などの名称は実在したものであることから、登場人物の行動を地図で追っていくことができるという。また武家物、剣豪物で書かれる剣の流派なども実在したもので、その流派独特の剣技も今に伝わる書物で調べているとエッセイで語っている。

いずれの作品にも共通するのは、主人公は地位も権力もましてお金もない弱い立場の人が何かのきっかけで事件に巻き込まれて、波乱万丈の人生を送るというストーリー仕立てになっているものがほとんどである。藤沢作品を読んで勇気づけられたという感想を寄せる人が多いのも、こんなところにあるのかもしれない。

約1カ月ほと゜前、私の友人が「藤沢周平の小説を読みたいので貸してくれないか」との依頼があった。読んだ本は同じ本箱にまとめて保管してあるので、さて、何から貸せばよいかと考えて思いついたのが、最初はできるだけ親しみやすい本で、なおかつ同じ傾向の内容でないものが良いだろうと思って物色を始めているうちに、私も再読してみようという気になった。

幸か不幸か、はたまた寄る年波の故か記憶力が減退しているおかげで、再読していても前回読んだときの記憶があまりなく、ときには初めて接するような新鮮さを感じることさえある。それと最初はとにかく「読む」ことが主眼になって「味わう」ところまでいってなかったような気もするので、今回は藤沢作品をとことん味わい尽くしてみたいと思う。
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by shun_photo | 2014-12-16 10:43 | 読 書

北方謙三のこと

冬場に入っていよいよ写真のネタが無くなった。こんなときの繋ぎには小説関連のエッセイでお茶を濁すしかない。さて、何を書こうかと思ってつらつら考えてみたところ、今までに紹介していなかった作家で蔵書数の多い作家では北方謙三がいることに気が付き、雑駁な感想めいたものを書き記すことにした。

北方謙三と聞くと私の中では「ハージボイルト作家」というイメージが濃く、歴史小説愛好家としては縁遠い存在であった。彼は中央大学在学中の1970年、同人誌に発表した作品が雑誌「新潮」に掲載され、約10年を経た後いきなり長編小説「弔鐘はるかなり」が出版され、作家として華々しいデビューを飾った。その後はハードボイルド小説を数多く発表して作家としての地歩を築いた。

1989年、南北朝時代を背景とした初の歴史小説「武王の門」に次ぐ「破軍の星」では第4回柴田錬三郎賞を受賞するなど、歴史小説の分野でも頭角を現すこととなった。これらの一連の南北朝ものは、俗に「北方太平記」と呼ばれ、多くの読者を獲得することに成功している。さらに1996年、全13巻に及ぶ書き下ろし長編、『三国志』の刊行が開始され、中国史の世界にも踏み込んだ。

1999年には「水滸伝(全19巻・・・集英社)」が小説すばるで連載開始。彼自身の語るところによれば、これ以後に発表される「楊令伝(全15巻・・・集英社)」、「岳飛伝(現在連載中)」を合わせた「大水滸伝」構想は、彼の40代後半の時に立てたものであり、当初から全部で50巻にするつもりでいたという。北方謙三の著わした中国史関連の小説は、三国志を始めとして他の著者の作品と比べてオリジナリティーに富んだ内容となっており、「大水滸伝」を構成する作品群も原典にはないフィクションが多く含まれている。

また、文体も歯切れが良く、1センテンスが非常に短いのが特徴で、読みやすくなっていることから読み始めるとどんどん先へ進んでしまい、文庫本1冊は1、2日程度もあれば読み終わってしまう。ただ、小説の中では日常のありふれた生活ぶりに延々と頁を割いてみたり、いささか冗長とも思える箇所も散見されるところが多少気にかかる。それも物語の構成上必要があって書かれているのであろうが、私にとっては馴染めない部分である。

と、なんだかんだと言いながら彼の小説は、作品数が7作、冊数にして59冊にも達しているのだから、まんざらでもないことになる。さしずめ次に読む作品として大水滸伝の最後を飾る「岳飛伝」ということになろうが、こちらは現在のところ単行本で第7巻まで刊行されているだけで、残りが9巻もありそうな気配だから文庫本化されるのを待ってみようと思っている。
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by shun_photo | 2013-12-25 10:59 | 読 書

藤沢周平のこと

最近は歴史小説から遠ざかっており、時代小説を読むことが多くなった。その中でも藤沢周平の著作が大半を占める。彼の小説の主人公は、いわゆる英雄・豪傑といった世に名を知られた人はほとんど登場せず、下級武士や市井の庶民の生活を題材にした人情味あふれる物語を数多く手がけている。

彼の出身地は現在の山形県鶴岡市。雪深い地であることや若い頃結核で5年を超える闘病生活の挙句、勤めていた教師の職を失ってしまい、業界紙の編集の仕事に携わることとなるが倒産が相次いだこともあって数度の転職を余儀なくされた。作家として世に認められるようになったのは、彼が44歳のとき「溟い海」で第38回オール讀物新人賞を、次いで翌年に「暗殺の年輪」で第69回直木賞を受賞してからのことだから特別早いというわけでもない。

現在までに読んだ彼の小説はまだ25冊。主だったところでは捕物シリーズが3冊、用心棒シリーズが4冊。長編小説が5冊。その他は短編集である。これだけで彼の小説について論評を加えるのは時期尚早であるが、同じ時代小説を書いた山本周五郎が総体的に見れば人間の生き様を描いているのに対して、人情味あふれるストーリー仕立てで、読後に優しい余韻が残る作品が多いような気がする。

藤沢周平はハードボイルド小説の愛好家であるためか、前述した捕物シリーズの「彫師伊之助捕物覚え」(新潮文庫)では、ミステリータッチの構成でいわゆる人情物や武家物、剣豪物とは異質な物語となっている。もう一つ異色なのは「一茶」(文春文庫)で、これは彼には珍しく伝記小説である。俳人としての一茶は、どことなくユーモラスな句を数多く残しており、当時の俳壇においてはむしろ異端とも言える存在であり、その生涯は決して恵まれたものではなかったようである。

彼の人となりを知るために、一人娘の遠藤展子「父・藤沢周平との暮し」(新潮文庫)も読んだ。そこで語られた父・藤沢周平の姿は、「父は普通でいること、平凡な生活を守ることにこだわっていたのです。」とあるように、その外見からも想像できるとおり、優しく物静かなイメージである。しかし、「カタムチョ(庄内地方の方言で、「意固地」「頑固」)な一面もあったようで、几帳面な性格もこんなところからきているのかもしれない。

もう一人の時代小説作家、池波正太郎は、「小説は面白くなければいけない」と常々語っているように、エンターテイメント性を重視した作風で、前二者がどちらかと言えば内向きというか内省的であるのとは好対照をなしている。それはそれで読者の好みの問題であって、どちらが良いというものではない。

あるWebサイトに藤沢周平の著作リストが掲載されており、そこには文庫本だけで70冊近い本が紹介されている。私には、気に入った作家の本はとことん読みつくすという困った性癖があるので、いつの日か藤沢周平の小説やエッセイも完全読破することになると思う。
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by shun_photo | 2013-10-25 15:11 | 読 書

宮城谷昌光「三国志」

宮城谷昌光の単行本「三国志」(文藝春秋社)がようやく完結を迎えた。この小説は、「月刊文藝春秋」に2001年5月号から2013年7月号までの12年余の長期にわたって連載されたもので、単行本としては2004年に第1巻が同社から発刊され、2013年9月、第12巻をもって完結した。因みに文庫本は「文春文庫」により2008年1月に第1巻が発刊され、現在、第8巻まで刊行されている。

私がこの本を手にしたのはまだ現役で働いている頃で、彼の小説はその殆どを読み終えていたこともあって、後日文庫本化されることが分かっていながらそれまで待つことができず、単行本の1巻から3巻の発刊と同時に一挙に買い求めた。ところが、後でこれが1年に1冊ずつしか刊行されないことを知り、そんな気の長い話だと翌年に次巻が発刊される頃には前巻に何が書いてあったか忘れてしまうので、発刊間隔の短い単行本にすべきであったと悔やんだ。と言っても後の祭り。以後は毎年9月に出版されるのを首を長くして待つ結果となった。

「三国志」はいろいろな作家が手がけており、その内容もバラエティーに富んでいる。私が読んだ本だけでも、吉川英治「三国志(全8巻)」(講談社)、今戸栄一「超三國史(全3巻)」(光栄ノベルズ)、童門冬二「新釈三国志(全2巻)」(日本経済新聞社)、北方謙三「三国志(全13巻 + 別巻1)」(ハルキ文庫)、宮城谷昌光「三国志(全12巻)」(文藝春秋社)と、作家にして5人、本の冊数は39冊にものぼる。この他にも三国志にまつわる小説として、陳舜臣「諸葛孔明(全2巻)」(中央公論社)、同「曹操」(中公文庫)を読み、今思えば「よくもこれだけ読んだものだ」という感慨を覚える。

なぜこれほどまでに三国志に魅かれるのだろうと考えてみると、まず物語のスケールの大きさ、登場人物の多彩さ、変化に富んだ内容などを挙げることができる。三国志には大別すると、中国・西晋代の陳寿の撰による「正史(歴史書)」と、中国の明代に施耐庵あるいは羅貫中の手によるものと伝えられる「三国志演義」を底本とするものがあり、前者はほぼ史実に忠実に書かれたものとされる。後者は時代小説・通俗歴史小説であり、言わば講談本の類とされる。日本の作家によって書かれた三国志の多くは「三国志演義」が底本であり、吉川英治の小説がその代表的な作品である。

「三国志」の時代背景となっているのは、中国の時代区分で後漢末期(184年~220年)から西晋による中国再統一(280年)までの動乱の時代である。黄巾の乱の蜂起に端を発して権力の争奪合戦が始まり、220年に曹操の死後、その息子の曹丕が当時の皇帝であった献帝より禅譲を受けて皇帝(文帝)となり、魏を建国。劉備もこれに対抗して221年に皇帝に即位し、漢の後継者と称して(蜀)を創設。さらに8年後の229年には呉で孫権が皇帝を名乗り、皇帝が同時に三人並んで「三国」が鼎立することになり、三国時代が始まった。

さて、宮城谷昌光の「三国志」はどのようなものか。多くの三国志が黄巾の乱(中国後漢末期の184年に太平道の教祖張角が起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。・・・Wikipedia)から筆を起こしているのに対して、その遥か以前、曹操の祖父を描くところから物語が始まる。第2巻の半ばになってようやく黄巾の乱に至った。この調子ではとんでもない長編小説になりそうな予感がした。読み進むにつれて今まで読んだ三国志物とは全く異なり、時代背景や登場人物の描写に多くの頁を費やしており、これは小説ではなく史伝ではないかと思えて来た。

最近読んだ北方謙三の三国志では、これも「正史」が底本とされているが宮城谷昌光のものとは似ても似つかない。こちらは彼独特の歯切れの良い文章で、戦闘シーンがふんだんに織り込まれ、痛快時代活劇といった内容になっている。どちらが良いというわけでもないが、エンターテイメント性に富んでいることだけは確かだろう。もっとも、史伝的歴史小説と単純比較すること自体に無理はあるのだが・・・。

物語の内容を見ると、「三国志演義」を底本とする三国志では、劉備が善玉、曹操は悪玉として描かれているものが多いが、宮城谷は曹操を相当な人格者として描いている。結果的にみれば、だからこそ魏が最後まで残り、中国の統一を成し遂げて「晋」という国を創り得たとも言えよう。また諸葛孔明ヤ映画にもなった赤壁の戦い(レッド・クリフ)についても宮城谷本での状況描写はあっさりしたもので、その点でも肩透かしをくったという印象をもった読者もおられるのではないか。

宮城谷がこの本を執筆するにあたっては、年表の作成や資料の整備などの準備に10年を費やしたというだけあって、よくもまあこれだけ調べ上げたものだと感心する。彼はこれまで古代中国、特に春秋・戦国時代の小説を多く手がけ、知識量も豊富なだけにこれだけの大作を書き得たのだろう。今回、三国志全巻が出揃ったのを機に、再度最初から読みなおしてみたい気もするが、現在のところまだそれだけの気力が湧いてこない。いつか、そのうちに・・・。
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by shun_photo | 2013-09-21 11:27 | 読 書

「私の本箱」が1,000冊に到達

本の重複購入防止のために作成したHPの「私の本箱」の蔵書リストがこのほどついに1,000冊に達した。元データはExcelファイルに登録してあって、こちらの方では気に入っている作家の未読本(購入予定本)も掲載してある。蔵書数が1,000冊ともなると、書店に出かけて本を見ただけではそれが購入済みか未読かの判別がつかない。先日も宮城谷昌光の小説を危うく重複購入しそうになった。初版発行年月日を見ればある程度の見極めをつけることができるはずなののだが、それでも「もしかして」ということもあるので買わずに帰ってリストでチェックしたところ、やはり購入済みだった。

現在「私の本箱」に登録されているのは著者にして58名。単純平均すると著者1名につき約17冊という計算になる。しかし、私は乱読家ではなく、同じ作家の作品を続けて読むタイプなので特定の作家の本だけで100冊を超えるものもある。因みに蔵書数の多い作家ベスト5を挙げてみると、司馬遼太郎(143)、池波正太郎(133)、 吉村昭(120)、宮城谷昌光(92)、北方謙三(56) の順になっており、この5人だけで全体の54.4%を占める。

本の内容は歴史小説が圧倒的に多い。日本史以外にも中国古代史に題材をとったものや、池波正太郎の時代小説、吉村昭の近・現代の歴史小説も含まれている。これは、「日本史を小説で読み解く」というのが小説を本格的に読み始めた動機であったことに由来する。それは今も飽きることなく続いている。ただ、最近ではこうしたことにはあまり拘りがなくなって、作家中心の読み方であることから、新田次郎のような現代小説なども多く手にするようになった。

私の車のグローブボックスには、Excelファイルの図書目録からピックアップした購入予定本リストが入っており、著者別に図書名、出版社が記されている。ふと思いついて書店に出向いたときなどにはこれを手にして書棚を見て回る。しかし、今では欲しい本を書店で求めることが困難になってきており、通販で買い求めることが多くなった。それもそのはずで、リストに掲載されたものは今では故人となってしまった作家の本が多いからだ。

歴史小説の面白さは、そのストーリーもさることながら、その時代の出来事(史実)を作者がどう解釈し、登場人物をどう評価しているかも興味を覚えるところである。また、通常の歴史に語られていない舞台裏を知ったり、史実と史実のはざまにある学問的には未解明の部分を作者の想像力で繋ぎ発展させていく、小説ならではの面白さもある。

本の数が増えるにつれて本箱もその数を増し、今ではこれ以上自室への置き場所がなくなってしまった。それより、これ以上増えると本の重みで床が抜けてしまわないかという懸念すら出てきた。これまでも不要な本を適宜処分してはいるものの、歴史小説ばかりは愛着があって捨てられない。「だったら図書館へ行って借りてきたら?」と言うのも理解はできるが、やはり気に入った本は手許に置いておきたいという気持ちが強く、なかなか図書館へは足が向かない。

今、考えていることは、もう時代遅れとなったPC関係のマニュアル本の処分と、数百枚のLPレコードをCDに変換すること。つい最近、息子が誕生祝いにと、CD変換が可能なレコードプレイヤーを買ってくれたのでこれを利用したいのだが、昨年から手掛けている野草図鑑のリニューアルですらメニュー部分は完成したものの、個々の野草の解説がようやく2割ぐらい済んだだけで、完成までにはまだ相当期間を必要としている上に、レコードのCD化となるとどれほど時間がかかるか想像もつかないため、着手にも至っていない。まさに孫の手も借りたいところだが、全員小学生にもなっていない。さて、どうしたものか。
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by shun_photo | 2013-09-02 15:15 | 読 書