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津村節子「紅梅」 - 吉村昭との闘病の日々 -

f0000789_11523587.jpg雨降りの日や何も予定がないときには、ふらっと書店へ出掛けることが多い。先日も2日ほど雨が続いたので、最近よく読んでいる山本周五郎の本を物色しようと書店へ行った。店内に入って何気なく新刊書コーナーを覗くと、宮城谷昌光の「草原の風」が目に飛び込んできた。彼の著作としては久々の最新刊とあって迷わず購入を決めた。ふとその傍らを見ると、津村節子著「紅梅」がうず高く並べられていた。

f0000789_11582015.jpgこれまで津村節子の本は読んだことがなかったが、つい最近、文芸春秋9月臨時増刊号で「吉村昭が伝えたかったこと」という特集を読んだとき、彼女の著作に、夫である吉村昭が舌癌に冒されてから亡くなるまでの1年半の闘病記録を、「紅梅」というノンフィクション小説としてまとめた本が出版されたとの記事があり、どんな内容か興味もあったのでこれも併せて購入した。

吉村昭と津村節子は学習院大学の同人誌仲間として知り合って1953年に結婚した。しかし、多くの小説家がそうであったように、当初は経済的には恵まれず、一時は行商で北海道の各地を巡り歩くような苦労を重ねた。文壇で世に認められたのは津村節子の方が早く、結婚後12年を経た1965年に「玩具」で芥川賞を受賞。吉村昭はこの間4度も同賞の候補に挙げられながら、いずれも受賞に至らなかった。

吉村昭は妻の受賞を契機に、勤めていた会社を退社して執筆に専念することとなり、その意気込みが通じたのか翌年の1966年に「星への旅」で太宰治賞を受賞した。次いで長編小説「戦艦武蔵」が「新潮」に掲載されたことにより作家としての地歩を築いた。以後、話題作を次々に発表し、徹底した現地取材をベースにする作風から「記録文学」と称されるジャンルを切り拓いた。彼の人となりや作風についてはこのブログのカテゴリーの「読書」欄でも折りにふれて紹介しているので、ここでは詳述を避ける。

この稿の主人公は津村節子なのだから、小説家としての彼女のことも紹介しておかなければならない。彼女は、1990年「流星雨」で女流文学賞、1998年「智恵子飛ぶ」で芸術選奨文部大臣賞を受賞。2011年には「異郷」で川端康成文学賞したほか第59回菊池寛賞も受賞するなど輝かしい実績を残している。また、2003年に日本藝術院賞を受賞し日本藝術院会員にもなっている。

吉村昭は2005年2月、舌癌を宣告され幾度か手術を繰り返すこととなる。2006年、新たに膵臓癌を発症。同年7月30日、本人の意志で「命の綱」カテーテルポートの針を抜き、翌日31日未明に永久の眠りに就いた。享年79歳であった。生前、彼は「死後3年間は私のことを書くな」と遺言で妻に書き残している。このことがなかったとしても、津村節子は小説家というより妻として夫の死後短期日のうちに生前の回想を書く気にはなれなかったであろう。

小説「紅梅」は、彼の没後5年を経た2011年、「文學界」五月号に発表、同年七月に文藝春秋社から単行本として発刊され、発売後、わずか一カ月余りで第4刷を重ねている。小説のタイトルともなった紅梅は、吉村昭の書斎の前庭に植えられたもので、小説にも舌癌を発症して間もない頃の逸話としてこのことが次のように触れられている。

『庭の紅梅が咲いた。紅梅は離れの夫の植え込みに植えてある。昨年花の盛りの時に夫が母屋の書斎にいる育子に屋内電話で、
「鶯が来ているよ」
と知らせてきた。(中略)。今年も花が満開になる頃に、鶯が来るだろうか』
(小説の文中では津村節子は育子という名前で登場している。)

小説のクライマックスでは、夫が死を迎える間際に、息子の首に手を廻して何事か言葉を繰り返し、やがて息が絶えた。このとき妻は『あなたは、世界で最高の作家よ』」と叫んだと言う。なぜ『あなたを愛しているわ』とか『私もすぐ行くから、待っていて』と言えなかったのだろう、『なぜ育子にではなく息子なのだろう』と悔やみ激しく自分を責めている。

この小説は、妻として、小説家としての津村節子が吉村昭との闘病の日々を小説として綴ったものであるが、情に溺れることもなく、時には客観的に現実を見据えて書かれている。しかし、ときとして小説の仕事に忙殺されて満足に夫を看病できなかったことへの妻としての悔恨が赤裸々に述べられている。

吉村昭の書斎は現在も生前同様の状態に保たれている。文藝春秋9月臨時増刊号のグラビア記事の中では、インタビューに答えて『「こうしておけば、いつでもまた原稿が書けるでしょう?」書斎に案内してくれた津村節子氏が、つぶやくようにこう言った』と紹介されている。

また同書のインタビュー記事の末尾には、夫の死後、いろいろな催し物や夫にまつわる著作で忙殺されているうちに夫が『吉村昭という一人の物故作家になって遠くへ行ってしまったように感じていたのですが、「紅梅」を書いて、夫としてあの人が身近に戻ってきたような気がしているのです』と述懐していることから、この小説が彼女にとって、気持ちの上でひとつの区切りともなったのではないかと推察される。
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by shun_photo | 2011-12-05 10:23 | 読 書